Mag-log in机の上に、契約婚約の指輪を置く。
母の指輪ではない。奪われかけたものではなく、私が一度選んだもの。 だから、返すのではない。 いったん、置く。「婚約を、白紙に戻します」 声は揺れなかった。 机の上で、指輪が照明を細く返した。 征臣の目が指輪に落ちた。 征臣はすぐには何も言わなかった。 止めないのかと、どこかで思った。 止められたら困るくせに、止められないことも痛い。人の心は、本当に面倒くさい。 私は申立書を手に取った。「鷹宮家の婚約者としてではなく、白鳥澪として出ます」 征臣は申立書を見た。「証拠は借ります。話す言葉は、自分で書きます」 すぐには返事がなかった。 征臣は指輪を見たまま、手を伸ばさなかった。「場の手配と警備だけは、させてくれ」 征臣はそこで口を閉じ、私の返事を待った。「そこまでです」「分かった」 私は指輪の横を通り過机の上に、契約婚約の指輪を置く。 母の指輪ではない。奪われかけたものではなく、私が一度選んだもの。 だから、返すのではない。 いったん、置く。「婚約を、白紙に戻します」 声は揺れなかった。 机の上で、指輪が照明を細く返した。 征臣の目が指輪に落ちた。 征臣はすぐには何も言わなかった。 止めないのかと、どこかで思った。 止められたら困るくせに、止められないことも痛い。人の心は、本当に面倒くさい。 私は申立書を手に取った。「鷹宮家の婚約者としてではなく、白鳥澪として出ます」 征臣は申立書を見た。「証拠は借ります。話す言葉は、自分で書きます」 すぐには返事がなかった。 征臣は指輪を見たまま、手を伸ばさなかった。「場の手配と警備だけは、させてくれ」 征臣はそこで口を閉じ、私の返事を待った。「そこまでです」「分かった」 私は指輪の横を通り過ぎ、保留印の押された申立書を封筒から抜いた。 指輪は紙の上で小さく光っていた。その向こうには、確かに私が一度選んだ時間が残っていた。 征臣なら、保管先も、手続きも、危険の切り分けもすぐ決められる。けれど彼は、指輪の置き場所を一言も提案しなかった。 用紙の角に、自分の爪の跡がついた。 止めたいはずなのに止めない。その我慢が見えたから、私は指輪から目をそらさずにいられた。 相沢が、何も言わずに新しい用紙を机へ置いた。 保留印のない申立書。まだ誰の判断も重なっていない、白い欄。 私はペンを取った。指輪を外した左手ではなく、火傷の痕が残る右手で。 痛みのおかげで、字だけはまっすぐになった。 私は椅子に座り直した。 左手には、もう指輪がない。 指輪の跡だけが残っている。白い細い輪。失くしたのではなく、自分で外した印。そう思うことにした。 ペンを持つ。 相沢が言った。「提出後は取り下げに手続きが必要になります。本当にこの形でよろしい
私は保留印の押された申立書を、机の上に置いた。紙は軽い。軽いのに、置いた音だけが妙に重かった。「白鳥家でも、そうでした」 声は落ち着いていた。「澪にはまだ早いって、何度も言われました。家のため、お母様のため、私のためって」 征臣の顔から、色が少し消えた。「……同じことをした」「悪意があったとは思ってません」 声が少し掠れた。「でも、知らなかった。私の名前の紙なのに」 守ろうとしたのだと思う。そこは疑っていない。 でも、申立書が止まっていたのを見た瞬間、父の机が浮かんだ。 私は左手を見た。 契約婚約の指輪が、照明を細く返している。母の指輪とは違う。これは征臣が差し出した選択の証だった。 だからこそ、今は重い。「『君のためだ』と言われると、また何も言うなと言われている気がするんです」 会議室の空気が止まった。 相沢が息を呑んだ音が、小さく聞こえる。 征臣は動かなかった。 言い返せたはずだ。危険だった。最善だった。時間がなかった。いくらでも言葉はある。 でも、彼はどれも選ばなかった。「悪かった」 短い謝罪だった。 その短さに、不意に泣きそうになる。 私は泣かずに、指輪へ触れた。 会議室の窓ガラスに、自分の顔が薄く映っていた。怒っている顔だった。白鳥家では、すぐに直せと言われた顔。けれど今は、直したくなかった。「次は……止める前に、私を呼んでください」「止める前に?」「はい。私が嫌だと言えるところで、話してください」 征臣は一拍置いて、息を逃がした。「……分かった、とはまだ言えない」 分かったふりで話を閉じないことだけは、伝わった。「でも、次は君のいないところで決めない」 相沢は視線を落とした。征臣も、それ以上は言葉を重ねなかった。 私は指輪に触れた。金属の下で、皮膚が少し熱を持っている。
テーブルの端で、相沢の端末が震えた。彼は画面を見るなり、ほんのわずかに眉を動かした。弁護士が表情を消し損ねる時は、だいたい良くない知らせが来た時だ。 相沢の説明は筋が通っていた。危険を減らし、報道を抑え、白鳥家の出方を見る。聞けば聞くほど正しい。正しいのに、胃のあたりだけがむかついた。「東都経済新聞の関連アカウントが、先ほどの記事を再掲しています」 相沢が言った。「見出しは」 聞く前に、分かっていた気がする。「鷹宮副社長、婚約破棄直後の令嬢を私邸に保護。白鳥家側は遺産持ち出しを主張、です」 保護。遺産持ち出し。画面の上では、私はまた別の女になっていた。 だから、余計に嫌だった。 父もよく「お前のためだ」と言った。 その後に来る話を、私はだいたい知っていた。 黙れ。待て。譲れ。「澪、無理に言葉にしなくていい」 征臣が呼んだ。 名前を呼ばれた瞬間、喉が詰まった。 泣きたくない、と思ったら余計に目の奥が熱くなった。 私は椅子から立った。 膝が少し震えた。机の下で隠れていた震えが、立ったせいで見えてしまう。「申立書を見せてください」 相沢が封筒を出した。 白い封筒の角に、赤い小さな印が押されている。 保留。 母の内容証明にも、届かなかった印があった。 父の机で止まった紙。 鷹宮の会議室で止まった紙。 場所は違うのに、私の声が止められる感触だけが似ていた。 私は封筒を開けた。 申立人欄には、昨夜の自分の字がある。 白鳥澪。 少し右に傾いた、強がった字。 その上に、誰かの判断で保留印が重なっていた。 息が浅くなる。「あの場を、もう一度やらせたくなかった」 征臣が言った。 声は低い。けれど、いつもの低さではない。どこか焦っていた。 私は顔を上げた。「だから、黙って止めた」 征臣の指が袖口から離れた。 言っていることは正しかっ
翌朝、会議室の空気は昨日より乾いていた。 机の上には、私が夜中までかけて作った証拠目録が置かれている。付箋の色は黄色。項目番号は母の帳簿と揃えた。手書きの部分は少ない。震えた字を、あまり人に見せたくなかった。 相沢は書類を読み、数か所に鉛筆で印をつけた。「内容は十分です。ただ、公開聴聞そのものを止める選択肢もあります」 顔を上げた。 相沢ではなく、征臣を見た。 征臣は窓際に立ち、片方の袖口を何度も押さえていた。 その癖を、もう覚えてしまった。言いにくいことがあるときの指だ。「どういう意味ですか」 相沢が答える前に、征臣が口を開いた。「白鳥家側の資料は粗い。公開聴聞に出なくても、記事の撤回と差し止めはできる」「それで、私の申立ては?」「……君を、また人前に立たせたくない」 その言葉で、胸の奥がひやりとした。さっきまで開いていた扉が、目の前で閉まる感じがした。 征臣が私を傷つけたいわけじゃない。たぶん逆だ。だから、何を怒ればいいのか分からなくなる。 君。 その呼び方は、いつもなら胸の内側に残る。今は違った。 私は証拠目録を手前へ引いた。「その申立書、私の名前ですよね」 征臣の喉が動いた。「止める前に、私に言う話じゃないんですか」 相沢が気まずそうに資料を閉じる。 その仕草で、嫌な予感がした。「相沢さん」 声が低くなった。「私の申立書は、もう提出されていますか」 相沢の指が止まった。 一拍。 その一拍で、答えは十分だった。「安全確認のため、提出を保留しています」 保留。赤い二文字を見て、母の書面を思い出した。 父の机で止まった紙。理由は違うのに、嫌な感じだけが似ている。 安全のため、慎重に、時期を見て。聞き慣れた言葉が並ぶほど、指先が冷えた。 紙の上に置いた手から、温度が抜けた。 私は征臣を見た。 彼は言い訳をしなかった。け
名字も名前も、まだそこにあった。 私は封筒を手に取った。 紙が少し冷たい。 征臣の手がわずかに動いた。私はそれを見てから、自分で封を切った。 中から出てきた書面の一行目に、出席要請の文字があった。 その下に、申立人の欄が空白のまま残されていた。 久我山麗子の文面は、短かった。 余計な慰めも、怒りもない。 白鳥家関連寄付金および白鳥澪氏の出生疑義に関する公開聴聞を、第三者委員会準備手続きとして実施する。出席の意思がある場合は、申立人欄に本人署名のうえ、証拠目録を添えて提出されたい。 たったそれだけ。 でも、これまで私に向けられたどの言葉よりも、まっすぐだった。 可哀想だとも、守ってあげるとも書いていない。証拠で話せ、と言われている。 母なら、少し笑ったかもしれない。 澪、泣くのはあとで。先にページ番号を確認しなさい。 そんな声が聞こえた気がして、心のどこかが変に熱くなった。 私は証拠目録の用紙を広げた。 母の帳簿。 港町の紅茶缶から出た写し。 未送信メール。 内容証明の控え。 投薬記録。 戸籍画像の不審点。 項目の横に、日付と保管場所を書き足していく。母の資料は、感情ではなく順番で私をここまで連れてきた。 だから最後まで同じやり方で並べる。申立人欄へ戻るのは、そのあとだ。その順番だけは誰にも決めさせない。 書けるものは多い。けれど、書くたびに、母が一人で持っていた重さが指に移ってくる。 ペン先が紙に引っかかった。「一度、休んだ方がいい」 征臣が言った。 征臣の声は低かったが、書類には手を伸ばさなかった。「止めたら、書けなくなりそうです」 言ったあと、ペンを握る指へ余計に力が入った。 征臣は私の手元を見た。「書類には触れない。水だけ持ってくる」「……お願いします」 返事をして、申立人欄の上に手を置いた。 白鳥澪。
私は本文の続きを読んだ。 白鳥家側は、近日中に戸籍資料を提示する意向だという。 画面の白さが、急に紙のように見えた。 紙は、いつも誰かの都合で私の立場を書き換えてきた。席次表。契約書。診断書。告発状。 今度は、戸籍。 記事の最後に、小さく添えられた写真があった。 写真の中の涙は、誰に落ちるためのものなのだろう。父か、瀬里奈さんか、世間か。画面越しの涙なのに、昔と同じ甘い匂いがする気がした。 画面を伏せれば、その間だけは楽になれる。けれど、莉々花の涙だけが事実として残り、私の戸籍だけが疑われる。それを征臣に処理させて待つつもりはなかった。 ぼかされた書面の端に、白鳥家の家印らしい赤い影が滲んでいた。 画面越しでも、彼女の肩は小さく震えていた。けれど、その震え方を私は知っている。泣き慣れた人の、崩れないための震えだった。 記事の下には、短い動画が埋め込まれていた。 莉々花はカメラの前で泣いていた。話の切れ目ごとに画面の脇へ目が動く。そこに何があるのかは映っていない。鏡か、スタッフか。私は動画を一度止めた。『お姉様が、私の戸籍まで奪おうとしているんです』 震える声。けれど、画面の隅で、配信前に置かれた照明だけが妙に明るかった。 コメントが流れる。 妹さん可哀想。 姉の方が本当は偽物なんじゃない? 御曹司を捕まえたら、次は戸籍か。 胃の奥が冷えた。涙は、ここまで人の名前を汚せるのか。 東京に戻ったのは、その日の夕方だった。 雨は降っていなかったのに、車の窓には細かい水滴が残っていた。港の湿気をそのまま連れて帰ってきたみたいで、少し気持ちが悪い。 鷹宮邸の会議室には、顧問弁護士の相沢が待っていた。銀縁の眼鏡をかけた、声の小さい男性だ。書類を机に置く手つきは正確で、紙の角がすべて同じ方向を向いている。「記事に出ている画像ですが、正式な戸籍謄本そのものではありません」 相沢は一枚のプリントをこちらへ向けた。 拡大された画像の端に、薄い線が走っている。コピー機の影かと思った。けれど、相沢はそ